死の印象
- 菊池健太郎
- 8月19日
- 読了時間: 2分

8月10日、甥っ子の一周忌のためにお休みさせていただきました。お寺が戸塚でクルマのナビは国道16号を推奨してきたのですがいかんせん3連休の中日&お盆休みの影響で16号は渋滞の時間が読めず。そこで少し遠回りになるが圏央道経由で西から戸塚に入ることに。幸い渋滞は全くなかったのだが海老名あたりで激しい豪雨。そういえば甥っ子が急死した日も大雨だった。
今日まで身の回りの人の死に幾度か接してきたが振り返ってみるとその時の年齢や立場によって印象が違うことに気づく。父方の祖父母の時は小学生で漠然とした死の恐怖を。母方の祖父母の時は大学生から社会人にかけての時期で純粋な悲しみを。父が亡くなったときは4年前は離婚後4回再婚し好き勝手にやっていた父の事後処理のわずらわしさを。今回の甥っ子に関しては親より子が先に逝くつらさと世の中の理不尽さを。
法要から帰ってきて数日後、知らない場所で家族がソファーに座っている。私は少し離れたところにいて家族のほうに向かおうとするのだが動けず声も出ない。「ひょっとして自分は死んでしまったのか」と後頭部が痛くなり背中がぞくっとした瞬間に目が覚めた。改めて死は自分にもいつか必ず訪れるという当たり前のことに気が付いた。
多摩市多摩センターの整体院身体均整堂からだや



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